休憩室の硬い床の上で、膝を抱えて蹲る。
長袖のTシャツから、秋雨の淋しい匂いがする。
丁度良いサイズだったはずのデニムパンツは、ここ数日ですっかり緩くなってしまった。
洗濯の時間もなくて、脱いだツナギはもう三日も着続けている。
雨の匂いと、幽かな家畜のにおい。
慣れてしまった暖かな日常に、常に魔物が潜んでいる事を忘れていた。
やっと見つけた居場所だった。
自分が生きていて良い場所なのだと、初めて思えた。
暖かな家族の時間。
部外者だけど、他人だけど、傍で見ていられる事が嬉しかった。
初めて失いたくないと切実に思った。
例え、その居場所に居られなくなったとしても。
その場所だけは、確かにあるのだと信じたい。
初めて望んだ。
小さな幸せ。
それを与えてくれた、松宮家の人々。
遠く離れてしまっても、決して忘れる事はないだろう。
小さな窓の外。
とうとう雪が降り出した。
少し、寒い。
彼は来てくれるだろうか・・・。
いや、きっとスティーブなら来てくれる。
映画に出て来る軍人さんのような風貌で、いつも気取らない雰囲気が好きだった。
背が高くって、逞しくって、私なんて片腕で簡単に抱き上げてしまって。
濃い金色の髪は短く刈り上げて、碧い眼はいつも人懐っこく優しそうに笑ってた。
「戦闘機に乗りたくて軍隊に入った事があるんだ。手っ取り早くライセンスを取るなら空軍
だと思って。」
「調理師のライセンスも持ってる。和食、洋食、中華、何でも作れる。珍しい食材を探して
アマゾンにまで行ったんだ。酷い目にあったけど、楽しかったよ。」
いつもとんでもない話をして私を慰めてくれた。
傷つけられて泣いていると、眠りに就くまでずっと傍にいてくれた。
ゴメンネ。止められなくて、ゴメンネ。
耳元で囁く声は、いつも苦渋に満ちていて・・・。
ずっと私を支えてくれた。
どんな時も傍にいてくれた。
彼がいなかったら、きっと私は気が狂っていただろう。
求められるばかりの日々。
奪われるばかりの心と躰。
産まれたくて生まれて来た訳じゃないけど。
生きたくて死ななかった訳じゃないけど。
それでも、息をしている事すら辛かった毎日。
姫ちゃん。
そう呼ばれるだけで、安心出来た。
結局私は、逃げ出す事で裏切ってしまったけれど。
どうしてスティーブじゃなかったんだろう・・・。
どうしてディアンさんだったんだろう・・・。
バカだ・・・私。
絶対、叶わない想いだったのに。
逃げ出す事しか出来なかった。
お腹に宿った小さな命。
泣きながら諦めた。
産む訳にはいかなかった。
私の子供など、彼は望まない。
嫌われてるって解ってた。
憎まれてるって知ってた。
私を蔑む翠色の瞳が怖かった。
キスひとつしてくれないひと。
ただの排泄処理だって解ってた。
それでも、眺めていたかった。
バカだから、私。
だって・・・。
バカなんだもの、私。
結局、ウィンを傷つけて、スティーブを裏切った。
ディアンさんは、呆れているだろう。
バカな私を、もう忘れてしまっているだろうか。
そうかもしれない。
そうならいい。
もう二度と逢わずに済むのなら、きっと彼は幸せだろう。
少なくとも私は、きっと幸せだ・・・。
再会 W 。
不器用な恋をしたものだ。
気づいた時には遅かった。
まさか、ディアンがウィンのモノに手を出すとは思ってもいなかった。
気づいた時、姫ちゃんはボロボロだった。
オレより先に、ウィンが気づいてしまったからだ。
ウィンはディアンを責めなかった。
けれど、ディアンに見せつけるように姫ちゃんを犯すようになった。
あの頃には、もう。
ウィンの想いが愛情なのか、ただの独占欲なのか解らなくなっていて。
オレ自身、戸惑うばかりの毎日だった。
ウィンには時間がなかった。
彼の命には限りがあった。
全身に転移したガンが彼を蝕み続けていた。
繰り返された手術のせいで、満身創痍の状態だった。
その現実を見せつけられて、姫ちゃんは逃げ出す事を諦めた。
ずっと傍にいると約束してくれた。
それなのに 。
死に逝く者の最後の我儘だったのか。
姫ちゃんへの想いは暴走し、愛情は凶器に変わった。
その上、ディアンとの一件。
集中攻撃を受けたのは姫ちゃんだった。
嫉妬だったのだろうか。
暴力ではなく、乱暴だった。
ウィンは姫ちゃんを乱暴に抱いて、その華奢な躰に消えない痕をつけ続けたのだ。
噛み付くように口付て、乱暴に吸いついて、時折血が流れても決して手加減をしない。
そうする事で、姫ちゃんがディアンを諦めると思っていたのだろうか。
最初から姫ちゃんは何も望んでいなかったのに。
そんな事、ウィンが一番よく知っていたはずなのに。
オレがその事に気づいたのは、飯田がそっと姫ちゃんに渡した傷薬を見つけたからだ。
飯田を問い詰めて、やっと吐かせた時、彼は言った。
「璃羽さまを護れるのですか?」と。
姫ちゃんは飯田に言ったのだという。
「もしかしたら、私も天国に逝けるかもしれない。だから、スティーブには黙ってて。」
馬鹿な事を。
何て馬鹿な約束を。
あろう事か、ウィンは姫ちゃんに約束していたのだ。
死ぬ時は、一緒に連れてゆく と。
狂ってる・・・。
初めて、ウィンを憎いと思った。
時を待てなかったディアンの馬鹿を呪った。
そして、姫ちゃんの愚かさが哀しかった。
けれど、誰より憎かったのは、呪わしかったのは、哀しかったのは。
一番の馬鹿は、オレだ・・・。
こんなに傍にいたのに。
誰よりも彼らを見ていた筈なのに。
何より無力な自分が、赦せなかった。
「スティーブ。そろそろ飛行場に着きます。」
「ああ。解った。」
「ディアンに・・・連絡は?」
「必要ない。時が来れば、オレから連絡する。」
「解りました。」
今は、ただ。
姫ちゃんの無事をこの手で、この目で確かめたい。
すべては、それからだ。