声が聞きたかった。
古い病院の中に置かれた公衆電話の前。
スティーブの声を聞いた途端、ディアンさんの声が無性に聞きたくなった。
憎まれている事も、嫌われている事も解っていたけれど。
冷たく皮肉な声しか聞いた事はないけれど。
それでも・・・。

くしゃくしゃなメモを眺めて、随分迷って。
声が聞けたら、それで良かった。
でも・・・。
『ハロー?』
綺麗なソプラノだった。
もう、あの携帯は手放したのだろうか。
そうかもしれない。
けれど、そうでないのかもしれない。
何も言えず、受話器を置いた。

これが当り前の現実なのだと、自分に言い聞かせた。
すべては過去で、終わった事なのだ。


もしも。
もしも子供が産まれていたら。
少しは彼に似てくれただろうか・・・。
真っ直ぐなプラチナブロンドと翠の瞳。
白人特有の肌。
きっと彼に似たら、それはそれは美しい子供だっただろう。

男の子だったのだろうか。
それとも、女の子だったのだろうか。
三か月だった。
きっと、あの夜の子だ。

雪が降ってた。
粉雪だった。
積もらない雪。
朝には融けて消えてしまう雪。
まるで私のような雪・・・。

『約束します。彼が亡くなった後も。貴女には何不自由のない生活を保障します。』

知ってた? ディアンさん。
私、貧乏だったけど、不自由なんてしてなかったよ。

『私に出来る事でしたら、何でも言ってください。衣食住、何でも。欲しい物、必要な物、
すべて揃えます。ああ、カードを作らせました。使用限度はありませんので、ご自由に。』

でも、独りなんだよね。
ウィンが死んだら、私はひとりぽっちになるんだよね。

雪が降ってた。
出窓にはスティーブが買ってくれた小さな植物。
偶然、信号で止まった黒塗りのリムジンの窓から見つけた小さな花屋。
その店の前に色々な植物と一緒に置かれていた。
1コ、480円。
ただ見ていただけなのに、後日、スティーブがプレゼントしてくれた。
嬉しかった。
スティーブだけは私を見ていてくれる。
理解してくれる。
私には、それで充分だった。

外を眺めたまま、懸命に言葉を探した。
ディアンさんと話す時、私はいつも言葉を探し、選び、口にする。

何もいりません。
すべてが終わったら。
何もかも終わったら、また仕事を探します。
一からやり直すつもりです。
大丈夫です。
独りで生きる事には慣れてますから。

『嫌味な貴女(ひと)ですね。まあ、こちらに非があるのですから構いませんが。
遠慮してどうします。これからの人生は長いですよ。自由に楽しく生きた方が得だ。
そうは思いませんか?』

私は・・・。

『すぐに気持ちなど変わりますよ。今は、贅沢に慣れていないだけだ。
慣れてしまったら、もう手放せなくなる。自己犠牲の精神など、何の価値もない。』

淡々と言い捨てる。
その翠の瞳には蔑み以外何も映さない。
私の事など、見たくはないだろう。

昨夜のウィンは酷かった。
まだ、痛む。
心も躰もバラバラになりそう。

『寒いですか?』

痛む躰を抱きしめた私に、彼は意味深な視線を向けた。

嫌っ、やめてっ。
今日は赦してっ。
叫びは声にならず、抵抗は難なく封じられた。
昨夜乱暴に抱かれた躰が軋んで悲鳴をあげる。
肌を弄る指先。
圧し掛かって来る重み。
私を見下ろす、嫌悪の瞳・・・。

スティーブ・・・スティーブ・・・早く帰って来て。
怖いよ。痛いよ。苦しいよ。
歯を食い縛って泣きながら、出窓の外の雪を見つめる。

スティーブ。
私が、壊されていくよ・・・。



    声音 W    



スティーブとの連絡が途絶えて十日が過ぎた。
未だ、何処で何をしているのか解らない。
仕事も放り出して、と言っても、私達の場合は会長職のようなもので、余程重要な案件
でもない限り自ら動く必要はない。
それでも、これほど長く仕事から離れるなど彼らしくない事は確かだ。

ウィンの養子であった私達は、彼の死と共に莫大な財産と多くの会社を引き継いだ。
会社の殆どは筆頭株主という立場だけを残して手放し、別荘を始めとする世界中に散ら
ばる財産も必要最低限の物だけを残し現金化した。

財産の整理はウィンが生前から始めていたが、何しろ莫大過ぎる。各国の法律も絡む
大仕事だっただけに、弁護士だけで百人を超えた。その報酬だけでジェット機が何機購
入出来ただろう。
尤も、そんな些細な事など私達にはどうでも良かったが。

とにかく、日本へ来てからの私達は多忙だった。
それをひた隠しにして、ウィンと残された時間を共有していた。
多くの秘密を抱えた生活は大変だったが、それでも充実した毎日だった。

璃羽と、共に暮らし始めるまでは・・・。
ウィンの異常な独占欲に気づくまでは・・・。

残された時間がそうさせたのだろうか。
それとも、本当に愛だったのだろうか。
今となっては、真実など解らない。
ただ、ウィンの死から数日後、彼女は消えた。
それが私達の現実だった。


いつも、飯田からの電話は唐突だ。
だが、今回ほど待ち望んだコールはなかっただろう。

けれど、この電話が私を地獄に突き落した。
何処までも運命の女神は、私に背を向けたいらしい。

「飯田・・・飯田なのか。」
『はい。』
久し振りに聞く、憎らしい程に落ち着き払った声だった。
年は・・・五十代半ばだったか。秘書としては完璧だが、融通が利かない。
玉に瑕・・・と日本語では言うのだろうか。
「今、何処に・・・。」
『スティーブの依頼で地方に。』
「・・・何処だ。」
『後日、スティーブから連絡があるかと思います。』
この口調・・・。
器械的に話を進める時には何かある。飯田の癖なのだ。
「・・・。」
『ディアン?』
「姫は・・・無事か。」
『はい。』

生きていてくれた。
本当に、彼女が見つかったのだ。
安心した。
全身から力が抜けた。
けれど、その直後に襲ってくる痛み。

やはり、あの電話は姫だったのか・・・。
あの日、あの時。偶然などあり得ない。
璃羽は、どんな思いで私に電話をし、そして切ったのか。
彼女がいつもいつもスティーブを頼るのは当たり前の事だ。
私は決して、彼女に頼られるような男ではなかったのだから。

淡々とした飯田の声が、何処か物悲しく聞こえたのは空耳ではなかっただろう。

「・・・解った・・・スティーブに、連絡を待ってると伝えてくれ。携帯に連絡しても、アイツ
出ない。』
『はい。ところでディアン。』
「・・・他に、用件でも?」
『一年前の・・・あの産婦人科の話ですが・・・。』

今になって、なんだ・・・?
産婦人科とは、姫が私の子供を中絶した病院の事か?
ウィンはがん治療の後遺症で子供が出来ない。
姫の子供は、間違いなく私の子だ。

「それで・・・?」
『ひとつ、貴方にだけ言ってない事が。』
「な・・・にを・・・。」
『璃羽様の子宮に異常があったそうです。無茶な性交の傷の他に・・・恐らく・・・ウィン
の・・・抗がん剤の影響ではないかと思われる後遺症が・・・。』
「後遺症・・・。」
『本人にも、伝えていないそうです。後日、必ず来院するよう言ったのに、現れなかった
そうですから・・・。』
「・・・それで・・・。」
『手術が必要になるだろう、と。』

『精密検査の結果。もしも状態が悪ければ、子宮は・・・全摘だそうです・・・。』

知らなかった真実。
知りたくなかった現実。
これは、彼女を泣かせ続けた罰だ。