集中治療室の前にある廊下。
並ぶ小さな椅子のひとつに座り、私は独り考えている。
集中治療室に入れるのは家族だけだ。
今は和己さんのお母さん志乃さんと、お父さんの和夫さんが付き添っている。
和己さんと違ってご両親は共に小柄な方だ。
そして、咲おばあちゃんはもっと小さい。
小さな背中を丸めて、いつもぬか床を混ぜていたっけ。

和己さんには一つ年上のお姉さんがいる。
今は金策の為、嫁ぎ先に頭を下げに行っている。
脳溢血・・・。
保険が利いても、治療費は莫大だ。
後遺症が残れば、更に出費は増えるだろう。
小さな家族で営む農家は、それでなくても生活は苦しい。
その上、最近妙に張り切って働き始めた和己さんの為に、お父さんは新しいトラクターを
買った。頑張る後継ぎの姿が嬉しかったのだろう。
そのローンも丸々残っている。
三年前には集中豪雨の被害に遭い、その時に直したビニールハウスのローンだってある。
本当は、私に給料を払うのも大変な筈なのだ。
それでも、この一年半。ずっと暖かい家庭の中に私を置いてくれた。
感謝しても、しきれない程に感謝している。
だから、これでいいのだと、自分に言い聞かせている。

ふと気付くと、隣に和己さんが座ってた。
疲れた顔をしてる。
当たり前だ。
自宅から病院まで片道3時間も掛かる。
それなのに、この三日、毎日通っているのだ。家畜がいるから。死なせる訳にはいかない。
まだ家畜の世話が出来ない私が手伝っても、和己さんの負担は変わらない。
その上、毎日往復6時間。精神的にも肉体的にも、もう、限界だ。

「大丈夫だよ。いざとなったら、俺が出稼ぎに行くよ。」
「・・・。」
「ばぁちゃんの命には代えられないモンなぁ。」
「和己さん。」
「そんなに悩まないでくれよ。りうのせいじゃないんだから。」
「でも。」
「りうがウチに来る前からさ、ばぁちゃん、時々頭痛いって言ってたんだ。頭が重くて痛いっ
て。きっと、その時病院に連れて行けば・・・こんな事にならなかった。ごめん・・・。
ばぁちゃんの事で、りうにこんな辛い思いさせて。」
疲れと、これから先の不安で、和己さんの声は小さく震えていた。

和己さんはおばあちゃん子だ。お姉さんの典子さんと二人。忙しいお母さんに代わって咲
おばあちゃんが育てたのだという。
だから、二人ともとても素朴で優しい。

「二人とも、大丈夫?」
その声に見上げると、大きな荷物を持った可愛らしい女性が立っていた。
和己さんの幼馴染、大垣美幸さんだ。
町では一番大きな農家の一人娘で、美幸さんのお父さんはレストランやチーズ工房など手
広く経営しているのだという。
ただ、経営状態はあまり良くないと青年会議所行われた集まりで聞いた事がある。
私と同じ年だというから、27歳・・・いや、28歳になったばかりだったか。私より半年早く生まれ
ているはずだ。
和己さんより一歳年下。
そういえば・・・和己さんはスティーブ達と同じ年だ。29歳。農家の人は結婚が遅いというけど、
適齢期だろう。
周囲の人たちは、いずれこの二人が結婚すると思っている。
私も、お似合いだと思う。
「はい。お弁当。二人とも食べてないでしょ?」
お嬢様育ちだけあって、背中まである茶色の髪はクルクルに巻かれ、身につけているのは
ブランド物ばかりだ。
我儘だけど、人を気遣う事の出来る優しい人。

「やだ。どうしたの? りうったらずぶ濡れじゃない。上のツナギ脱いで来たら? 中、ちゃんと
着てるんでしょ?」
「はい・・・。」
「まさか、この冷たい雨の中、外にでもいたの?」
「・・・。」
「風邪でもひいたら、結局和己に迷惑掛けちゃうわよ?」
「はい。」
「そういえば・・・りう。雨の中、何してたんだ?」
「・・・。」
「変なコねぇ。ほら、早く脱いで来て。寒いでしょ?」
「はい。じゃあ・・・ちょっと行ってきます。」

二人の視線に送られて席を立った。
寒さは感じなかったが、心に鉛のような重さがある。
スティーブに連絡した以上、あの世界に連れ戻されるだろう。
昼も夜も、狂ったように私の名を呼び続けたウィンはもういない。
けれど・・・。
いや、もうそんな必要はない。
彼が、私を抱く意味などもうないのだ。
それでも。
自然と、濡れた躰が熱を帯びる。
肌を這い回る指先。
確実に私の弱い所を捉えて責め続ける熱。
そして、躰の奥で広がる恍惚とした目眩。
忘れた事など、一度もなかった。

エレベーターの横にある小さな休憩室。
集中治療室を利用している患者さんの家族が休む為の部屋だ。
作業用に買った少し大きいサイズのツナギを脱ぐと、私は硬い床に座り込んだ。



    声音 V    



飯田との連絡がつかない。
やはり、あの電話は彼女からだったのか。
この一年半。
一度も連絡をして来なかったのに、一体、何があったというのか。
「くそっ・・・。」
迂闊だった。
彼女からの電話を、よりによって女に受け取らせるなんて・・・。
いつも泣いてばかりいた。
この腕に抱き締めれば抱き締めるほどに、彼女は泣いた。
また、泣かせてしまったのか。
解らない。
一体、何があった?


小さな教会の片隅で、狭い部屋を間借りして暮らしていた女だった。
最初は、なぜ、こんな女にウィンが拘るのかが解らなかった。
小柄で、華奢で、無口で、暗くて。
確かに綺麗ではあったが、いつも俯いていて。
時折笑っても、それは無理やり貼り付けた作り笑いで。
いつもいつも人の顔色を窺って。

「趣味が悪すぎる。」

スティーブと二人きりになると、決まって私は腹を立てていた。
「ウィンは何を考えているのか。」
少しずつ彼女の置かれていた立場を理解しても、結局は同じ。
「あんな女の何処が良いと言うんだ。」
三年前の私は、いつもいつも苛立っていた。
ウィンに言いよって来る女など掃いて捨てるほどいた。
無論、財産目当てが大多数だろうが、例え財産など無くても彼なら女に不自由などしな
かったはずだ。
実際、彼がベッドに呼んでいた女達は美女ばかりだったし、頭も良く、立場を弁えていた。
それなのに。
「可愛いじゃないか。一生懸命言葉を選ぶのは、きっと彼女のクセだろう。」
「そんな事を言ってるんじゃない。あの引き攣った笑い方。ウィンが何かプレゼントしようと
する度に「私には似合わない」だの「贅沢なものをもらっても困るし」だの。少しはウィンの
立場になって欲しいものだ。」
「姫ちゃんは、そういう生活しかした事がない。仕方ないだろう。ウィンがそれを一番よく解っ
てるんだ。だから少し考えてプレゼントすればいいのに、ウィンは高価な物ばかり贈りたが
る。姫ちゃんばかり責めるなよ。」
「だから腹が立つ。ウィンは何を考えているんだ。」
「やれやれ。いつもクールなお前とは思えないな。どうした。」
「ふん。私はお前ほど寛容には出来てない。悪かったな。」
「くっくっくっ・・・。」
「なんだ?」
「姫ちゃんは不器用なんだよ。上手く人と接する事が出来ないんだ。」
「だから、そういう問題じゃ・・・。なんだ?」
「なんか・・・好きなコにちょっかい出すいじめっ子みたいだぞ。お前。」
「なんでそうなる。」
「はは。姫ちゃんは優し過ぎるんだよ。そして、自分に存在価値を認めていない。」
「・・・。」
「居場所がないんじゃなくて、最初から諦めてる。自分には居場所なんてないんだ、って。
そういう環境で育ったから、優しくされるとどうして良いのか解らないし、どう応えていいの
か解らない。」
「だからって、あの引き攣った笑顔はないだろう。いかにも作り笑いだ。せめて愛想笑い
くらい・・・。」
「笑い方が解らないんだ。知らないんだよ。だからタイミングも合わない。結局中途半端な
笑顔になって、それがお前には気に入らない。」
「随分と・・・物解りがいいな。」
「そりゃあな。お前とは長い付き合いだし、姫ちゃんも大事だし。」


いつもいつも苛立つ私と、それを宥めるスティーブ。
けれど、スティーブの本質を見る眼は確かだったのだ。

ある時。
彼女がポツリと言った。
『この世に産まれてはならない人間が、この世で生き続けるのは辛いんですよ・・・。』
彼女のすべては、ここから始まっているのだと痛感した。

気がつけば、彼女に名を呼ばれるのを待っている。
ウィンやスティーブのように、私を呼んで欲しかった。

彼女は、ウィンと呼び、スティーブと呼んでも、私の名だけは、
「ディアンさん。」
と呼んだ。