悪夢に魘された夜明け。
優しい声に意識を揺さぶられ目覚めた。
何の夢を見ていたのだろう。
知っているのはスティーブだけ。
「張り詰めていた糸が、切れたかな・・・。」
囁く声に、苦渋が滲む。
大きな手のひらで私の頬を撫でながら。
「姫ちゃん。」
囁くように呼んで、スティーブは優しく私の首に舌を這わせる。
涙が止まらない。
口に手の甲を押し当ててみるけど。
涙は次から次から零れて来る。
「泣かないで。傍にいるよ。もう怖い思いはさせないから。」
耳の裏側に舌を這わせて、頬の涙を唇で拭って。
私の喉を食む。
スティーブの唇が優しい。

ああ、そうか。
見ていた夢は最後の夜。
めちゃくちゃにされた、あの時の夢か。
「大丈夫だよ。大丈夫。泣かないで。」
何度も何度も熱い舌が肌を滑る。
大丈夫。大丈夫。
繰り返される囁きは、まるで懺悔のよう。
どうして?
スティーブは何もしていない。
けれど、それこそが自分の罪だとスティーブは笑った。
哀しく、寂しそうに。


思いきり首を締め上げられた。
折れてしまえと言わんばかりに。

連れて逝く。
独りになどしない。
ずっと一緒に。
地獄まで。
璃羽。
璃羽。
璃羽。

壊れた機械のよう。
繰り返し私の名を呼び続けるウィン。
何処に、あんな力が残っていたのか。
ずっと意識不明だったのに。
深夜一時。
突然意識が戻った。
近代的な病院の特別室。
豪奢な部屋のベッドの上で。

全部脱いで。
最期に見せて。
触れたい。
璃羽。
璃羽。
璃羽。

子供のような顔で。
私をベッドに誘った。
骨と皮になった身体。
痩せて。
満身創痍。
腕から、脚から、チュウブを抜き取る。
命の糧。
最後の我儘。
私をめちゃめちゃに抱いた。
哀しいくらい細い指。
爪が私の肌を裂いて。
血が流れて。

好きだ。
愛してる。
誰にも渡さない。
置いて逝かない。
璃羽。
璃羽。
璃羽。

「一緒に、逝こう・・・。」

私の首を締め上げる。
人形のような私の躰。
痩せて、ボロボロ。
噛み付かれた乳房。
流れる血。
それでよかった。
苦しくて、痛くて、怖くて。
でも、もう終わる。
長い黒髪がベッドから溢れて。
白い床の上で揺れる。
遠くなる意識。
連れて逝ってくれるの?
嬉しい。
優しい微笑み。
深い深い灰色の瞳。
これで、終わる。
そう思ったのに。

誰かの、叫び。

『姫っ!?』

ディアンさんだ・・・。
どうして。
目の前に飛び込む金の髪。
もの凄い力で私の首を締め上げるウィン。
軍隊経験のあるスティーブが、必死に私からウィンを引き離す。

姫っ!
姫っ!

私の躰に絡みつくプラチナブロンド。
どうして止めるの?
なぜ放っておいてくれないの?

意識の遠くでウィンが叫ぶ。

連れて逝く。
誰にも渡さない。
地獄まで一緒。
置いて逝ったら。
誰かのモノになる。
やだ。
やだ。
いやだっ。
私のものだっ。
私だけのものだっ。

狂った叫び。
妄執と執着。
凄まじい執念。
死に逝く者の、最期の足掻き。

駆け付けた医師と看護師達。
顔面蒼白。
修羅場と化した部屋。
血の、匂い。

ディっ。
早く璃羽を連れて行けっ。
早くっ。
早くっ。

ディは、幼い頃の、ディアンさんの愛称。
スティーブが泣いてる。

やめて。
やめて。
ウィンっ。
姫ちゃんを、連れて逝かないでっ。

血の気が失せて。
魂が壊れて。
人形のような私の躰。
抱き締める腕。
私を見つめる碧の瞳。
どうして貴方が泣くのだろう・・・。
私は、嬉しいのに。
こんなに、嬉しいのに。

首に残る傷痕。
所有者の、証し。

それから三日三晩。
一睡もしないウィン。
薬が効かない。
何をしても無駄。
別室に隔離された私。
傍にいたのはスティーブ。
ウィンとディアンさん。
隣の病室で二人きり。
何が話されたのか。
今も解らない。


四日目の朝、医師に呼ばれた。。
ベッドの端に私。後ろにスティーブとディアンさん。
横たわるウィンは、私の首に巻かれた包帯を見て、優しく微笑んで
いた。

けれど。

『死んでも離さないよ    璃羽。』

灰色の瞳が、真っ直ぐ私を射抜いた。

最期の呪縛。
まるで暗示のように。
私の中へ埋め込まれる。
躰が竦んだ。
死への誘惑。
深い深い海の底に沈む光。
震えたまま、動けない。
微笑むウィン。
その眼は、殺戮者。

だめだっ!!

悲鳴のような叫び。
誰かが私を、抱き締めた。
強引にベッド脇から引き離し。
腕の中に閉じ込める。
大きな手のひらで、耳を塞いで。
厚い胸板で、私の視界を奪って。

何も見ないで。
何も聞かないで。
忘れて。
何もかも。
これは夢。
ただの、悪夢。

何度も囁く声。
忘れて。
これは夢。

ああ、これはディアンさんだ。
どうしてそんなに、必死なの?

『璃羽・・・離さない・・・決して・・・。』

最期の言葉。
私は、それから暫く眠って。
目覚めた時。
ウィンは既に天国へ旅立っていた。
呆然と立ち尽くしたまま。
私の時間は止まった。

疲弊し、砕けた心。
壊された躰。
私の心臓。
あの日。
凍りついたまま。


「スティーブ・・・。」
あの日。
流す事の出来なかった涙が・・・止まらない。

「姫ちゃん・・・。」
泣かないで。
お願いだから。
泣かないで。

「スティーブ・・・。」

抱き締めて。
もっともっと。
怖いよ。

今も、まだ。
私の心臓は。
凍りついたままだ。



    声音 Z    



ブルーのベネチアングラスに真っ白な鷺草。
透明なバカラの深い大皿に静(大百合)と蒼薔薇。
可愛らしい紅の江戸切子に撫子と霞草。
大きなダイニングテーブルの上は花で溢れ。
キラキラと輝くガラスに彩られる。
ガラスの器は、姫が好きだった。
割ったら大変だと言って、自分では触らなかったが。
いつもいつも眺めていた。

「花瓶は使わないのか。」
「使うわ。そのバカラ、背が高いから玄関に置くの。カラーの良いのが入ってるし。」
「黒のカラー? 暗いな。」
「カサブランカに合わせるのよ。後、グリーン系を少し。ガラスのお猪口もある?」
「文子に掛ると食器も花器も関係ないな。」
「センスの問題よ。食器を食べ物だけに使ってどうするのよ。」
「そんなものか。」
「そうよ。それにね。高価だからって手の届かない所に飾っておくほど無駄な事はな
いわ。だったら食器を描いた絵画でも買えばいいのよ。」
「確かに。その花は、なぜニ輪なんだ。一輪ざしだろう。」
「鷺草は一対で飾るものよ。鷺は一生涯パートナーを変えない鳥なんですって。
番いの片割れが死んだら餌も食べずに後を追うらしいわ。」
「・・・。」
「ずっと、死んだパートナーから離れないんですって。健気ね。」

私に背を向けたまま花を活ける文子。
聞きたい事は他にあるのに、なぜか出てくる言葉はくだらない事ばかり。

「撫子は璃羽ちゃんの部屋に飾るの。霞草と一緒にブーケ風に活けて。このバラは
スティーブの部屋。」
「白が多いな。」
「ええ。今回のテーマは白。ちなみに、貴方の部屋には胡蝶蘭よ。」
「本当に白ばかりだな。」
「ええ。暫くは白を中心に考えるわ。」
「なぜ?」
「それを私に聞くの?」

白は、姫の好きな色だ。
自分の知る、唯一綺麗な色だと言っていた。
大好きな雪の色だと。

窓辺のソファに座り、外を眺める。
そろそろ雪が降りそうだ。
ぼんやりしている間に、花々は文子の手によって美しく飾られてゆく。
文子の活ける花はシンプルだ。ゴチャゴチャした活け方は決してしない。
まるで彼女の性格そのままだ。
今回は白と緑と他一色。三色のみで構成している。

「あの子は、染まらないから。染まれないと言った方が正しいのかしら。」
「・・・。」
「何処にいても、空気みたい。」
「空気・・・か。」
「みんなに必要とされているのに、自分は何も必要としないの。」
「・・・。」
「必要とされるままに与えて。汚されるままに消えてゆく。文句も言わずに。ただ、
消えてしまうの。」
「霞草は雪。撫子は桜。」
「ええ。季節外れの桜は、ただ、雪に凍えて散ってゆくわ・・・。耐えて、耐えて耐え
て、散ってしまうのよ。」

文子は、あの一年間を知っているんだったな。
ぼろぼろになって壊れていく姫を、毎週見てたんだ。
確か、姫より十歳年上だから。
妹のように思っていたんだろう。
言葉の端々に、私を責める刃を潜ませている。

「元気そうだったと言ったな・・・。」
「やっと聞く気になった?」
「何処に?」
「場所は言わない約束だから。でも、農村で働いてたそうよ。」
「農村・・・。冗談だろう。」
見つからない筈だ。
盲点と言っていい。
あの姫に、肉体労働など。
迂闊だった。
「畑と家畜の世話。小規模農家で、とっても良い家族に囲まれてたみたい。」
「そう・・・か。」
「ええ。十日くらい前に、突然、彰から連絡があって。」

着替えを用意して欲しい。
事情があって、場所は言えないから俺が取りに行く。
璃羽ちゃんのなんだ。
下着とか、全部。
ん? スティーブが一緒だ。
大丈夫。
元気だ。
少し太ったかな・・・。
まぁ、最後に会った時が最悪な状態だったから。
昔のサイズだと思う。
ああ、頼む。

約束の場所に来た彰は、なぜか楽しそうだった。
幾つかの大きな紙袋を抱えてヘリに乗り込むと、文子に小さく手を振った。

「その時は会えなかったんだけど。三日前。今度はスティーブから直接電話が
あって。」

ヘリを迎えにやるから来て欲しい。
確か、店は休みだろう?
姫ちゃんを銀ブラに連れてって欲しいんだ。
靴とか、コートとか、色々買い揃えて。
行き付けの店には連絡しておくから。
息抜きだよ。
オレは行かない。
大丈夫。
荷物持ちに彰連れてって。
ああ、よろしく。

言うだけ言って、電話は一方的に切れた。
もうっ!! と受話器に向かって文句を言ったが、彰が楽しそうだった訳が、
文子にも少し解った。
スティーブの声が、優しく穏やかだったから。
璃羽の状態が良いのだろう、と。

「久々に会ったけど、相変わらず迷子の子犬みたいな顔してたわ。」
「・・・。」
「でも、笑ってくれたの。」

私を見て。
ちゃんと笑ってくれたのよ。

「安心した?」
「・・・ああ。」

今は、それで充分だ・・・。
何処にいても。
誰といても。