さよなら・・・。
言葉に出来ない思いを込めて、小さく小さく頭を下げた。
戸惑い、後を追って来る和己さん。
その前に、飯田さんが立ちはだかっている。

さよなら。
ありがとう。ほんとにほんとに。ありがとう。
初めて家族という物を知った。
誰も私には与えてくれなかった物。
優しい時間。

『人さまの顔色見ると、やめんね。』

咲おばあちゃん。
いつも人の顔色を見るのが私のクセ。
そんな事しなくて良いって。
ちょっと怒って。

ねぇ、おばあちゃん。
私、笑うのって、とっても難しいって思ってた。
でもね。
美味しいぬか漬け、食べるだけで笑顔になれた。
二人でぬか床混ぜて、きゅうりと、なすと、人参と。
楽しかった。
初めてだった。

ごめんね。
もう、傍にいられないけど。
ありがと。
和己さんも、典子さんも、お父さんも、お母さんも。
優しくて、暖かくて。
きっと、おばあちゃんの家族だからだね。

和己さんは良い人。
だから、きっと幸せになれる。
幸せは、いつも傍にあるものだよ。
だって。
和己さんの傍には、いつも美幸さんがいる。

エレベーターのドアが開いて。
スティーブが私を抱き上げたまま、少し前屈みになって。
乗り込んで。
私、最後の一瞬まで和己さんの顔を見てた。
ちゃんと笑えたかな。
ちゃんと、ありがとうって伝わったかな。
だって私。
笑うの下手だから。

エレベーターのドアが閉まる瞬間。
飯田さんが振り向いて、大丈夫ですよ、って。
笑ってくれた。


「姫ちゃん。」
囁くように呼ばれて、貪るように接吻けられて。
私の中で、時が、戻る。
奪うような接吻けをするのは、ウィンだけだと思ってた。
エレベーターのドアが再び開くまでの、ほんの数秒だったけど。
暖かい腕の中で、意識が飛んだ。

タクシーの中ではずっとスティーブの膝の上でうとうと。
次に目覚めたのはヘリの爆音で。
流石に、この音の中では眠れない。
でも、ずっとずっと膝の上。
重くないのかな・・・。
ふと、視線を向けると、碧い蒼い瞳が笑ってる。
額に優しく降りてくる口付け。
何だか、急に恥ずかしくなった。

もこもこのチンチラ。
あったかいや・・・。

ホテルの屋上にあるヘリポートに着くと、支配人が待ち構えていた。
高級リゾート地にある某最高級ホテルは世界中に幾つもあり、その顧客データを共有
している。
そして、このホテルにとって特別客であるスティーブは顔パスだ。
直接部屋へと案内され、そのまま支配人からカードキーを受け取った。
フロントになど行く必要はないし、着いた時点で室内は完璧に整えられている。
一般客とは別格。キッチン、ミニバー、専用室内プール。何もかもがすぐに利用出来
るようになっているのだ。
特にキッチンは、料理が趣味であるスティーブに合わせ、冷蔵庫の中は新鮮な食材
でいっぱい。勿論最新の調理器具を揃え、どんな食材でも電話一本で届けられる。
フロアには内装に合わせた白いグランドピアノ。三つある寝室にはすべてキングサイ
ズのベッドが置かれ、バスルームは二つ。それぞれ浴槽が二つ備え付けられており、
一つは大きくて丸い形のジャグジー。もう一つは大きなゆりかご型のバスタブ。勿論
猫足。
シャワーは二つ。天井から雨みたいに降ってくるのと、手に持てるタイプ。

何だか懐かしい。
一瞬。そんな事を思ってしまった自分に罪悪感。
何を安堵しているんだろ、私・・・。
散々迷惑掛けて、逃げ出した癖に。

病院を出てホテルの部屋まで。
私は一度もスティーブの腕から離れる事無く、一歩も歩かずにソファへ。アンティーク
調にデザインされたシックな調度品はどれも逸品。
スティーブは慣れた足取りでキッチンに立つと、私の為に蜂蜜入りのミルクを温めて
くれた。
ゆっくりとゆっくりと胃に流し込む温もり。
正直、ホッとした。
何にホッとしたのかも解らないけれど。
ただ、無性に安心している自分がいた。
いつから、こんなに厚かましくなってしまったんだろ。
懐かしがったり、安堵したり、うとうとしたり。
この先。
どうやってスティーブの恩に報いればいいのか解りもしない癖に。

私の小さな小さな溜め息。
スティーブは見逃したりしなかった。

美しいテーブルを挟んでソファに座り、しばらく私の様子を見ていたスティーブは、ふ、
と立ち上がると私の前に来て床に膝を付いた。
「脱いで。」
碧い瞳が真っ直ぐに私を見つめる。
「・・・。」
「全部。見せて。」
「スティーブ。」
大きな両の手が、私の頬を優しく包む。
私は、小さく頷いて立ち上がると、そっと汚れたTシャツの裾を掴んだ。
躊躇いがないのは、もう、スティーブにはすべてを見られていたから。
何もかも、知られていたから。
それでも、一瞬下着を脱ぐ事に躊躇うと、スティーブの手が伸びて来た。片腕で私の腰を抱き
寄せると、もう片方の手が白いショーツに触れる。色気も何もない。2枚720円の白。
でも。
「見せて・・・何もかも。」
ゆっくりと、汚れた肌から最後の布が取り払われる。
私のすべてが、碧い瞳に晒される。

スティーブは、優しく私の躰を抱き上げると、バスルームに誘(いざな)った。



    声音 Y    



この部屋に、他人が入るのは実に一年振りだった。
飯田は家族のようなものだから例外として。
色とりどりの花を抱えた女。
当然だ。
この女は花屋だ。
スティーブからの連絡が絶たれ、既に二週間。
突然来客を知らせた電子音に、一瞬、心臓が跳ねた。

「お久しぶりですね。ディアン。」
一人では持ち切れなかったのか、アルバイトらしき女が二人、顔を赤くして部屋に入
って来る。初めて見る顔だが、そんな事はどうでもいい。
女達が両手に抱えた花、花、花。
懐かしい光景だった。

『綺麗・・・とっても綺麗ね。ディアンさん。』
まだ、私達の関係が狂ってしまう前の記憶。
姫は、綺麗と言って喜びながら、でも、決して花に触れる事はなかった。

美しい花々をリビングの大きなテーブルに置くと、二人は帰った。
残ったのは花屋の店長。椿文子(つばきあやこ)。
ウチで運転手をしている椿彰(つばきあきら)の双子の妹だ。
この部屋の花は、この女がずっと活けていた。
姫が行方不明になってからも、半年ほど。
いつ姫が戻って来ても良いように。
文子とは、一鉢480円の観葉植物が縁。
椿の双子の妹と知ったのは随分後の事だった。

花が好きだった姫の為、ウィンが一週間に一度、室内すべてに花を活けさせていた。
ずっと。
だが・・・なぜ今。

「スティーブから依頼があったの。今日から、以前のように花を活けてくれって。」
「・・・スティーブが。」
「ええ。彰から連絡があって、私、璃羽ちゃんに会ったわ。」
「・・・っ!!」
「元気そうだった。」
オフ・ホワイトのリムジンと共に姿を消した椿・・・。
姫の所に呼ばれていたのか。

私の知らない所で、私の処刑台が用意されている気分だ。
それで、構わないけれど。

「もう少ししたら、璃羽ちゃん、帰って来るそうよ。」
文子の声が、なぜか遠くから聞こえる。

「病院の予約を頼む。スティーブからの伝言。」
「・・・。」
「そう言えば解るって。確かに伝えたから。」
「ああ。」

やっと。
やっと私の罪が・・・裁かれるのか。
ふと、そんな事を考えた。
私を裁けるのは、璃羽ただ一人。
その彼女が、帰って来る。

「バカラの花瓶、どこだったかしら?」
「・・・今・・・出す。」

遠くに文子の声を聞きながら。
私は久しぶりに物置となっている小部屋のドアを開けた。