すべては、懐かしい思い出だった。
暗く、孤独な幼い日々にあって、半年だけの。
懐かしく温かな思い出。
あの日々を忘れた事など、一度もなかった。

ある日、突然現れた長身の青年。
灰色の髪と、同色の切れ長の眼。
宣教師として教会にやって来た彼は、その日から施設のスタッフとしても働き始めた。
貧しい施設では、人件費など掛けられない。
何より、人を雇っても長続きしないのだ。
心に大きな傷を持つ施設の孤児たちは、多かれ少なかれストレスを溜め、日々暴走
してしまう。
それは日常的なケンカであったり、イジメであったり、破壊衝動であったり。
叱れば反抗し、優しくすれば独占欲を出し、放っておけばイジける。
そんな職場で、雀の涙程度の給料の為に働く者など多くないのだ。
だから施設ではボランティアに頼り、宣教師に手伝ってもらい、施設を何とか維持して
いた。

彼も、最初は面食らったようだった。
日本の生活にも慣れていないのに、問題を抱えた子供たちの世話など厄介なだけだっ
ただろう。
それでも、根気強く子供たちに接し、驚くほど早く施設の生活に慣れていった。
もしかすると、彼の心にも何かしらの傷があったのかもしれない。
この頃の私には、知る術などなかったが。

だから、いつも独りでいる私に彼が興味を持ったのも、何処かに感じるものがあったの
だろう。
床に膝をついて尚、真上から見下ろして来る彼に、最初は怖いと思ったものだ。
けれど、片言の日本語で、一生懸命私に話しかけてくれた。笑い掛けてくれた。
初めてだった。
私という存在を。
誰かの付属品ではない私を見てくれたのは。
彼が、ウィンが初めてだったのだ。

それは、同情であっただろう。
憐みであった事も否めない。
泣く事も。笑う事も。怒る事も。
およそ喜怒哀楽という感情とは縁遠い世界で生活して来た私にとって、施設での生活
は決して楽しいものではなかった。
孤児達の陰湿なイジメは終わる事がなかったし、ウィンだとて、私一人に関わっている
訳ではない。
施設では、孤児たちを平等に扱うのが鉄則だ。
その鉄則が、守られていたかは怪しいものだが。

それでも、人との会話すら成り立たない私にとって、彼の声は大切なものだった。

「アレハ、サクラ?」
「うん・・・。」
「花ハ?」
「散ったの・・・。」

ウィンが施設にやって来た時、庭の大木は葉桜となっていた。
桜は散って、濃い緑が木陰を提供するだけの、私のお気に入りの場所。

「綺麗ダッタ?」
「うん。」
「見タカッタナ・・・。」
「来年も、咲くって・・・。神父さまが言ってた。」
「ソウ? 良カッタ。ジャ、来年ハ一緒ニ見ラレルネ。」
「・・・え・・・?」
「一緒ニ、見ヨウネ。」
「・・・。」
「綺麗ナサクラ。一緒ニ、見ヨウ。ネ?」

「うん。」


果たされなかった約束・・・。
半年後。
ウィンは突然いなくなった。
誰にも何も言わず。

いつもより早い初雪が、音もなく降った朝の事だった・・・。



    声音 U    



「公衆電話・・・?」

それは、偶然の出来事だった。
黒にシルバーの冷たい輝き。
手の中の薄型携帯。
あの貴女(ひと)だけが知る番号。
鳴らない事は解っている。
それでも、充電を欠かした事はない。
この時もそうだった。
けれど。
「・・・っ。」
するりと指先から滑り落ちた携帯。
簡単に壊れる物ではなかったが、念の為にと確認をした刹那の驚き。
着信歴に残る゛公衆電話゛の文字。
日時は・・・。

あの日。
あのホテルにいた時間帯・・・。

まさか・・・そんな。
ホテルを出た後、ハイヤーの中で確認した。
待受画面に着信のマークはなかったはずだ。
けれど・・・。
間違い電話か。
このタイミングで?

「まさか・・・。」

残る着信歴。
だが、着信音を聞いた記憶はない。
考えられるのは、バスルームでの僅かな時間。
二台の携帯を枕元にあるテーブルの上に置いていた。

    見つめあうと素直におしゃべりできない・・・    

あの貴女(ひと)がよく口ずさんでいた歌。
静かに流れる着ウタ。
聞いてない。
私は、聞いてない。
では・・・。

まだ日本にいるはずの女に電話した。
どんなに忙しくても、私からのコールを無視する事はない
案の定、嬉しそうな声で女は言った。

『寝ぼけていて、条件反射的に出てしまったの。
無言電話だったわ。
間違い電話だと思って何も言わなかったけど。
どうかした?』

能天気な女の声に、無言で携帯を切って項垂れた。
頭の中は、真っ白だ。
迂闊だった。
ホテルのロビーで受けたスティーブからの電話。
歯切れの悪い会話。
どうして気付かなかった?

何てタイミング。
間が悪いにも程がある。

既に三日。スティーブの携帯は圏外のまま。
何度かかけ直す内時折繋がるが、コール音が虚しく続くだけ。

「姫・・・璃羽・・・。」
どうして・・・っ。

いつもいつも後悔ばかり。
貴女の事では、後悔ばかり。
いつまで続くのか。
私が、壊れてゆく。