気がつくと雪がやんでいた。
休憩室の窓の外。
灰色の空にぽっかりと白い雲。

休憩室の外。
集中治療室の前の椅子に座って、和己さんが泣いている。
隣には美幸さん。
優しく和己さんの背を撫でながら、唇を噛み締め頬を濡らす。
医師が言う。
「年齢が」
「障害が」
「設備が」
何もできない、と。
まるで諦めろと言っているよう。
何とか咲おばあちゃんを助けたい和己さんと、悩むご両親。
私は第三者。
何も言えない。

スティーブが来ても、助けてあげられるか解らない。
金銭的な問題だけではなく、咲おばあちゃんの命の問題。
受け入れ先の病院が見つからない今、お金は然程の問題じゃない。
脳の腫れが引いても、その後は?
この病院の設備では、その後がない。
地方の病院に、脳外科があっただけでも奇跡だ。
けれど、医師は常駐ではない。
地方の苦しい財政では、週に三日、医師を確保するだけでも大変なのだ。

何も出来ないまま少し離れた椅子で蹲っていた。
ふと、エレベーターのドアが開いて、典子さんがやって来る。
和己さんのお姉さん。
金策に失敗したのだろう。疲れた顔をしていた。
ご主人は普通のサラリーマン。そのご両親は長男夫婦と同居する為に二世帯住宅を
建てている。典子さんのご主人は二男だ。
何とか50万円を貸してもらったというが、結婚して6年。子供の出来ない典子さんは
肩身の狭い思いをしたろう。
「こんな事になってごめんね。」
私の隣に座った典子さんが、小さな声で言った。
今時珍しいほど仲の良い姉と弟。
私には解らない家族の絆。

「カズ。本当にりうちゃんと結婚したかったの。それで、頑張ってたの。」
「・・・。」
「だからお父さんも、トラクター買ったりして。仇になっちゃったね。」
優しい顔。頬がこけている。あまり丈夫じゃない典子さん。疲れてる。
「典子さん・・・。」
「ごめんね。りうちゃんの負担になる事ばっかり・・・。」
「私・・・結婚は・・・出来ません・・・。」
「解ってる。でも、カズは諦めてないの。時間を掛ければって信じてる。」
朴訥な姉弟。
私はまた、大切な人を裏切って逃げるのだ・・・。

頼んでみよう。
何て罵られても。叱られても。
頭を床に擦り付けて。
頼んでみよう。
助けて。助けて。助けて。
咲おばあちゃんを、助けてください。
何でもします。
だから、助けてください。
私には、それしか出来ない。
いつもいつも、スティーブにはお願いばかり。
我儘ばかり。
その優しさを裏切り逃げた私を赦してくれとは言わない。
ただ。
助けて・・・。

「カズの傍にいてあげてね。」
典子さんの視線の先に、和己さんがいる。
「今は無理でも。あのコはいいコだから。」
可愛い弟。美幸さんと同じ事を言う。
「きっと、りうちゃんを幸せにしてくれると思う。信じてあげて。」
「・・・。」
「今は、傍にいてくれるだけでいいから。」
それは、無理。
もう、私に自由を生きる時間はない。
膝を抱えて、必死に涙を堪える。
それでも、言わなくては。

「ごめんなさい・・・。ごめ・・・。わた・・・し。もう・・・。」


なぜだろう。
いつもいつも。
私が泣いていると、彼は現れる。
私の心が壊れる寸前に。
その大きな手で。
私の心を掬い上げる。
大切な大切な。
ひと滴の涙を護るように。

その。
両手で。


古びたエレベーターが。
私の過去を、運んで来た・・・。



    声音 X    



誰を抱いても、満たされた事がない。
誰に愛されても、誰に求められても。
何を与えられても、何を手に入れても。
満たされない。
満足出来ない。

祖国の家・・・と呼ぶには巨大過ぎる城のような邸(やしき)で、スティーブと二人巨木を
見上げる。
今年も美しく咲いた。
満開の桜。
この時期だけは、私達は何処にいても帰って来る。
ウィンもそうだ。
決して桜に近づきはしないけれど、帰って来る。
どれほど仕事が忙しくても。

スティーブが自慢の腕を奮い、最高のワインを傾ける。
戦闘機のライセンスが欲しいと、突然空軍に入隊したスティーブ。
もう、除隊したという。一年弱。
ライセンスだけが目的。愛国心なし。
それでいい。

二人揃うと仕事の話。女の話。馬の話。
乗馬は二人共通の趣味。
アラブ種は小柄だが毛並みは世界一。
女に苦労した事は・・・ある。追われる追われる。逃げた逃げた。
笑話。
株と為替。変動に頭痛。
世界的不況? 私達には関係ない。

満開の桜。
匂いのない花。
散り急ぐ花。
夜桜は最高。

楽しかった十代。
それ以前はない。
養子になった二人。
過去など忘れた。

二十代。
大学なんてつまらない。
世界各国飛び回る。
地球は狭い。
空は繋がってる。
実感。

楽しかった。
何処へ行っても注目の的。
疲れなんて感じる暇はない。

色々な国で、色々な肌の色をした女を抱いた。
愛した事はない。
女なんて、みんな同じ。
誘って来る。
自信過剰。
それでいい。
面倒な女は避ける。
当然。
避妊?
当たり前。
どうでもいい女に種なんてくれてやる必要が何処にある。
財産狙い。
眼の色が違う。
女なんて、どいつもこいつも。
色と欲。
金と宝石。
次の約束?
する訳がない。
自宅に呼べ?
二度と会わない。

それが常識。
そして日常。

なのに。
そのすべてが否定された。
たった一人の存在によって。


「璃羽だ。私の大切な姫君だよ。」
ウィンの隣に、大きな瞳を濡らしたひとが立っていた。
少女のよう。
長い黒髪を首の後ろで束ねて。
ポツンと立っていた。

心細げに。
所在なさげに。


『日本のおとぎ話に登場するプリンセスは。
みんな長い黒髪をしてるんだ。』
子供の頃、ウィンが言ってた。

邸の書庫に並ぶ日本の絵本。
不思議なドレスを着たプリンセス達。
月に帰る。
鳥に変わる。
最後はさよなら。
どうして幸せになれない?

『それがすべてではないよ。
きっと。』

ウィンの声は、とても寂しそうだった。