【伯爵夫人の恋人 第八話】
セアラが結婚したのは十五歳の春だった。
伯爵家の一人娘として生まれたセアラは十歳の時初めて王宮の社交界にデビューし、その美しさで男達の関心を一身
に集めたが、それが災いしたのだろう。一人娘を溺愛する両親はそれ以降セアラを社交会に出す事なく領地の城で過ご
させ、十五歳の成人になるのを待って政略結婚をさせたのだった。
夫となったクウォン伯爵はセアラより十五歳年上で、決して美貌の貴公子という訳ではなかったが、その穏やかな性格
が滲み出ているような顔立ちと透き通るような美声の持ち主であった。元々あまり身体が丈夫でない事もあり馬上の人とし
て武勇伝を残す事はなかったものの、その分博学であり、植物学者としては近隣諸国にまで名の通った男でもあった。
だが、それだけでセアラの父トーレン伯爵は娘の結婚を決めた訳ではない。彼が何より重要視したのは娘の幸せであ
り、それをクゥオン伯爵に見出したのは、伯爵の領地に群生する薬草の種類の多さだった。この世界では薬草は金と同じ
かそれ以上の価値を持ち、植物学者であるクゥオン伯爵の広大な領地にはそれが溢れていたのである。
しかも、その名声故に顔が広く、伯爵自身が温厚な性格で、自ら植物の世話をするのだと噂に聞いていた。
しかし、噂は噂でしかない。取り敢えず本人に会って見ようとクゥオン家の領地を訪れたトーレン伯爵は、まず、その城
の周囲に広がる美しい庭園に目を奪われた。その上、城内には幾つもの温室を持ち、そこでは類稀な薬草が何種類も
育てられているという。クゥオン伯爵本人も穏やかな気性らしく、あまり派手な生活は好まないようで、周囲には女の影もな
い。
噂は噂でしかない。けれどトーレン伯爵にっとてクゥオン伯爵は噂以上の好印象を与えるに充分な男だった。
一方、クゥオン伯爵は噂に聞いた伯爵家の美姫との結婚話を最初は断った。会いに来たトーレン伯爵の溺愛ぶりに、
一体どれほど甘やかされて育った娘なのか想像がついたからだ。あまり丈夫ではないクゥオン伯爵にとって、我が儘で贅
沢を好む娘は敬遠したい存在だ。実際、クゥオン家の財産目当てで押し掛けて来る姫達にはうんざりしていたのだ。
だが、一人の男の存在がクゥオン伯爵の心を変えた。
トレイアス・ガローン。
大商人として幅広い人脈を持つこの男は、取引相手としても年の離れた友人としてもクゥオン伯爵を知っていたし、トー
レン伯爵とはセアラが生まれた時からの付き合いがあった。
「セアラ姫か・・・天然だぞ。」
クウォン伯爵より降ってわいた結婚話を聞いたトレイアスは、開口一番、そう言い放った。
「は?」
「天然だ。無垢と言った方が良いか。」
「天然? 無垢?」
トーレン伯爵の訪問から数日後。偶然やって来たトレイアスに事の次第を話したクウォン伯爵は、セアラという少女に対
する偏見を大幅に改める事となった。
トレイアスは年若い友人の問いに顎髭を弄りながら厳めしく頷いた。揶揄っているのはまず間違いないだろう。
「すべての果物は飾り切りされたまま木に生っていると思っておるような娘だ。」
「はぁ・・・。」
「おっとりとした性格でな。攫われても攫われた事に気付かんぞ、あれは。」
「はぁ。」
「池に落ちてもボーッと浮いていそうだ。沈んでも気づかんだろうな。」
「それは・・・いくらなんでも・・・。」
「否。会えば解る。」
話しを聞けば聞くほど信じられないが、トレイアス曰く『本物の箱入り』なのだそうだ。
「結婚相手としては?」
まだ年若いクウォン伯爵の興味津津な眼差しに、トレイアスは口元に当てた杯を一気に煽った。楽しくて仕方がない、と
その仕種が言っている。
「一から育てる気があるのなら良い縁組だろうな。だが、人に任せたらその人間に染まってしまう危険性がある。だから無
垢だと言っているのだ。」
「ふむ・・・。」
「だが、自分で自分の好みに育てたいなら、理想的な娘だ。」
意味深なトレイアスの視線に、クウォン伯爵は目を細める。自分の手で育てる、という概念が、この瞬間までクウォン伯爵
には無かったのだ。
「ほぉ。」
自分の好みに育てたいなら・・・理想的、か。
「無邪気で無垢。まるで仔猫だ。人を疑う事を知らん。だから染まりやすい。トーレンもそれを恐れて社交会には絶対に出
さん。だが、宮廷では美しき姫の噂で持ち切りでな。いつまでも隠してはおけなくなったのだろう。」
「それで結婚。」
「そういう事だ。トーレンは既に五十を過ぎておる。己の死を嫌でも意識する年だ。一人娘の行く末を心配するのは仕方
あるまいよ。なにしろ、天然だからなぁ・・・。ありゃ一種の凶器だ。破壊力満点だぞ。トーレンですら心臓が幾つあっても足
りんと言っておった。」
「凶器って・・・。」
「そりゃお前。さっきも言ったが、自分が溺れていても気づかんような娘だぞ。」
「・・・もしや、実話ですか、それ。」
いくら何でもあり得ないだろう。だが、トレイアスは苦笑して頷いた。
「作り話に聞こえたのか。水の上でプカプカだ。それを見たトーレン夫人が失神した。」
何処まで信じていいのだろうか・・・。
「ドレスが浮いてくれて助かったようなものだ。それも、あと少し気づくのが遅れていたら、逆にドレスが水を吸って重くなり
『さようなら』の状態だったそうだ。本人は浮いていたのでまるで危機感はなかったらしい。トーレンに聞いて爆笑したら怒
られた。セアラが六つの時だ。」
どうやら実話だったらしい・・・。
「その後も笑い話には事欠かない。雨が綺麗だと言って庭ではしゃぎまわって翌日高熱を出し死にかけた。八つの時だ。
小鳥が美味そうに食ってた木の実を食って腹を壊したのは・・・たしか五つの時だったか。」
「・・・それって・・・天然とかの問題ですか・・・。もしかして、そのまま大きくなった?」
「そうだ。」
呆れる以外、どうすれば・・・?
そんなのと結婚したら・・・自分はどうなる?
「だが、心の美しい娘だ。穢れを知らん。真っ白なのだ。それは、決して悪い事ではないよ、クウォン。」
クウォン伯爵は、トレイアスのこの言葉でセアラとの結婚を決めた。
この瞬間、セアラの知らないところで、セアラの知らない未来が決まったのだ。
想像するに、この頃から既にトレイアスの下界における影響力は絶大だったのだろう。
巨星とは、神の降臨を導く標である。とは、幼き女神がまだエザンドーエン王宮にいた頃ディオネイルに語った昔語りで
あっただろうか。
トレイアスのクウォン伯爵家訪問より三カ月が過ぎたある晴れた日。セアラは結婚式当日に夫となるクウォン伯爵と初め
て会い、二人きりで朝食の時間を過ごし、クウォン家の聖堂でささやかな結婚式を挙げ、そのまま夫婦となった。
箱入り娘として大切に育てられたセアラは政略結婚を不思議とも思わず、その日、初めて出会った年の離れた夫に身
も心も捧げたのである。
クウォン伯爵は、何も知らないまま嫁いできた無垢な年若い妻を溺愛した。まるで壊れ物でも扱うかのように、美しい美
術品を愛でるかのように、それはそれは大切に愛した。セアラもまた、夫のその愛によく応えた。人も羨むほどに仲睦まじ
い夫婦。夜の営みは情熱的で、三日と待たずに夫婦は交わり合った。
「ベッドの中では雄と雌だよ、セアラ。それ以外でいる必要はない。」
初めての夜。夫は腰が砕けそうなほど艶やかな声でそう言って妻を裸にすると、羞恥にその視線から逃れようとする白
い肌を捉えてうつ伏せにした。その細い肩に背に、優しく唇が触れ、舌が滑る。ゾクゾクするほどしっとりと濡れた時間。夫
は折れそうなほど細い足首を掴み、そのまあるい踵を軽く甘噛みすると足の裏にまで舌を這わせた。
「大丈夫・・・怖い事など何もしない。力を抜いて。シーツと仲良くしていて・・・。」
その甘い美声は、初恋すら未経験のセアラですら蕩けさせるに充分な魅力に満ちていて。
「セアラ。とても綺麗だ。熱いね。肌がほんのり花の色だ。」
「あ・・・。」
「いいよ。声を出して。我慢などしないで。」
唇が、舌が。肌を優しく撫でて、滑って・・・。
「は・・・っ。あっ。」
骨ばった長い指が。髪を撫で梳き。火照った頬を優しく包み。
「力を入れないで。素直に感じていて。」
気がつけば、透き通るような青い瞳に、涙の溢れる黒い瞳が映っていて。
「大切にする・・・死ぬまで一緒だ。ずっとずっと・・・。」
二人に残された時間は、少ないかもしれないけれど・・・。
「聞こえる? 水の音・・・命の音だ・・・。」
長い指先が熱い場所で蠢いている。
誰も触れた事のない秘密の場所で。
「セアラに似た子供がいい。黒い髪と、黒い瞳と。」
「あっ・・・。あぁ・・・っ。」
汗ばむ白い肌に絡みつく。長い銀の髪。ひやりとした蒼白の肌が、熱く、熱く。火照る。
「あっ。」
「セアラ・・・大丈夫。すべて・・・任せて・・・。」
艶やかな美声に、蜜が溶け込む。
「きつい・・・。」
「いっ・・・たぃ・・・っ。あぅっ。」
セアラを圧倒する熱が、深く。深く。抵抗を破って。奥へ。奥へ。
「少しだけ・・・あと、少し。」
「いっ。あっ。」
すべてを、呑み込ませて。
「この奥が・・・命の・・・ゆりかご。解る?」
優しい声。でも、セアラには聴いている余裕などなくて。
「動くよ・・・。」
「ひっ。やぁっ。」
溢れる涙を舌先で拭われて。
「愛する人のゆりかごに・・・早く・・・命の種を・・・。」
「あっ、あっ、あ っ。」
「セアラ・・・。もっと早く・・・生まれてくれたら良かったのに・・・。」
熱い美声が、哀しげに囁いた。
まるで、自分の死を予感していたかのように・・・。
だから、十六歳になった妻が一人息子を産んだ時のクウォン伯爵の喜びようは周囲を驚かせるほどであったという。
セアラの幸福は、トーレン伯爵家の一人娘としてこの世に生を受けた事。
クウォン伯爵と結ばれ愛された事。
けれど、セアラの不幸もまた、彼らの愛情があまりに深過ぎた事であったのかもしれない。
愛される事しか知らなかった。
護られる事しか出来なかった。
それが、すべての不幸の始まりだった。
一人息子が六歳を過ぎた頃、身体の弱かったクウォン伯爵は最愛の妻子を残し世を去った。夫の死にセアラの受けた
衝撃は凄まじく、一時的にではあったが餓死寸前に陥るほど心身共に弱りきって行った。そんなセアラが何とか回復出
来たのは両親が健在であった事と、夫が溺愛した一人息子の存在があったからであろう。
何とか立ち直ったセアラは、夫が残した莫大な遺産に守られ息子と共に静かに暮らしていた。
だが、クウォン伯爵の死から一年が過ぎた春、その運命は一変する。
女神 降臨 。
それは、セアラの悪夢が始まった瞬間でもあった。
続く。