【伯爵夫人の恋人 第四話】

 

 

 

 円やかな白磁の肌に、ゆっくりと唇を落とした。

 気だるい午後。と言っても、この部屋に窓はない。例え窓があったとしても、この世界の空は昼でも暗いのだから昼夜の

差は殆どないと言っても過言ではない。ただ、時間の流れは変わらずある訳で、人々はその流れに沿って生活を営んで

いる。

 

「体温が、下がっておられます・・・。」

「大した事ではない。」

「ここ数日、眠ってもおられない。」

「下界で死者蘇生術を行使するのは、思っていたより骨が折れるのだ。」

「無理をなさって・・・。」

「そなた程ではない。痩せたな、ディル。」

 

 奇妙な関係だと思う。

 豪奢な毛皮を敷き詰めた質素な板張りの寝台の上に、二人。一糸纏わぬ姿で抱き合いながら、ただ、凍えた華奢な躰

にぬくもりを与え続ける男と、その腕の中に横たわる少女。

 出会って六年。

 肉体的な関係がないかといえば嘘になる。

 少なくとも、ディオネイルにとって少女は神である前に愛しむべき存在であったし、少女にとってディオネイルは唯一自

らに触れる事を赦した異性である。

 だが、恋人と呼ぶには想いが強過ぎる。

 その癖、愛と呼ぶには二人、あまりにも不器用過ぎた。

 別に誰からも責められる関係ではないのに、周囲の者も、本人達も、このもどかしい関係をどうしていいのか解らないま

ま時間だけが過ぎてゆく。

 

「蘇生球・・・と、いうのですね。」

 腕の中の冷やりと凍えた真っ白な背中を優しく撫でながら、部屋の一角に浮かぶ水の球体を視界に映したディオネイ

ルは、興味深げに目を凝らす。

 

 三カ月前。

 トレイアスが運んで来た少年は死体となっていた。何も知らされていなかったディオネイルは目を剥いて父親に食って

掛ったが、幽かに微笑む少女に窘められ引き下がらずを得なかった。

 あの時、少女が呼んだ水竜の名を何と言ったか・・・。

 少女の声に、謁見の間の奥から巨大な顔を覗かせた竜は、トレイアスの腕にあった少年の死体を丸飲みにし、その姿

を球体に変えた。蘇生球。その名の通り、死者を蘇らせる為の命の凝縮体に変化したのである。

 やはり生き返らせるのか・・・。

 そう呟いたトレイアスに、少女は何でもない事のように、必要とあらば、と答えた。

 

 人の世にあって、死はすべての命に対して平等に分配される唯一のものだ。

 それを、容易く不平等に変えてしまう神の力。

 見せつけられる方は堪ったものではない。

 

「三カ月になりますね・・・。」

「うむ。この身が下界にあっては、力も下界の理に取り込まれてしまうらしい。思わぬ時間が掛る。厄介な事だ。」

 蘇生球の中の少年は、未だ目覚めない。

 不意に目を開ける事があっても、そこに意識はない。

「姫・・・。」

「なんだ。」

「体温がなかなか上がらない。不安になるのです・・・。」

 大きな力を行使する度、少女の躰は急激に体温を失ってしまう。

 それは、人の肉体でいう死に近い。不安になるなという方が無理だとディオネイルは思う。

「神に・・・死は無縁だが。」

「それでも・・・不安です。こんなに抱き締めているのに・・・。」

「・・・。」

「今日は・・・大丈夫ですか?

 

 不安げに揺れる琥珀色の瞳。右にはサファイア。左にはアメジスト。それぞれに散りばめられた宝石の眼差しが、時折、

母親の愛情を欲する子供のように駄々を捏ねる。

 

「ディル・・・。」

 欲しいのならば奪えばいいものを、この優し過ぎる男には出来ないのだろう。

「姫・・・。」

 何も言わずその背に腕を回せば、許可を得たとばかりに華奢な躰を優しく貪り出す。

 長い一日になりそうだ・・・。

 

 

 

 届いたばかりの書斎机に両肘を乗せ、組んだ指先の上に顎を乗せた。

 どうするべきなのか・・・トレイアスには珍しく溜息を繰り返し悩み続ける。

 憤怒の形相で女神の暮らす内離宮に乗り込んだまでは良かったものの、その結果たるや惨敗である。敵わない。あの

小娘には・・・。何度となく辛酸を舐めて来たが、結果はいつも同じだ。神である、それだけの事なのに自分の思った通り

に事は進まない。当然なのだろうが、トレイアスにはそれが辛い。

 下界においては全能とも言える女神。確かにそうだ。だが、その姿を見れば心が痛む。どれほど神の威厳を保とうとして

も、その姿は十六歳の少女だ。否、見た目だけならばもっと幼く見えるだろうその子供に、六十年近くも生きてきた自分は

何もしてやれないのだ。

 そして、その少女を愛する我が子にも、何一つしてやれる事がない。

 

 血に塗れた小さな両の手を思い出す。

 おとうさん・・・大粒の涙を零しながら、必死で母親の裂けた腹を押さえていた我が子。その小さな手の隙間から、更に

小さな手が覗いていた。最愛の妻の中で育っていた命。

 もうすぐ弟か妹が産まれるね。そう言って笑っていた息子の前で、何よりも大切だった命は喪われて逝った。

 

「アーリア・・・。」

 今は亡き妻の名を呟く。

 良妻賢母。良き妻であり母であり。何より、トレイアスという男のすべてを理解してくれた女。

 美しかった。亡国の貴族の姫だったというが、踊りが上手く、誰にでも真摯に接し嘘を吐かない女。戦で滅びた国から

逃れ荒んだ生活をしていたというが、驚いた事にトレイアスが初めての男だった。流れる涙も、暖かな躰も、何もかもが切

ないほど甘く熱くトレイアスを蕩けさせた。妻にするならばこの女しかいない。小さな村の片隅でひっそりと暮らしていた女

を強引に外の世界へと連れ出した。

 慣れないキャラバンでの生活。そんな中で息子を産み、育て、いつも笑っていた。あちこちの旅先で浮気をする度拗ね

ていたが、それでも、ケンカなど一度もした事はなかった。トレイアスにはアーリアだけがすべてだったのだ。

 最愛の妻と、可愛い息子。そして新しく産まれて来るであろう命。

 

 そのすべてが、一瞬で奪われた。

 怒りは憎しみに凌駕され、膨れ上がった憎しみは底なしの悲しみの前に平伏して・・・。

 

 アーリアの死後、誰も愛さなかった。誰も彼女の代わりにはならなかった。誰を抱いても、誰に愛を語られても、心は冷

めたまま。凍りついたまま。最早、トレイアスの心を動かす者など現れるはずもなかった。

 

 それなのに・・・。

 

「セアラ・・・。」

 産まれる前から知っていた。大商人の元に届いた注文書。若い伯爵夫妻の依頼は、初めての子供に着せる極上の

絹。良い香りのする揺り籠と魔除けの宝玉。

 選んだのは、アーリアだった・・・。

 

 

 やはり、知っているのだろうな・・・。

 女神の口ぶりは、トレイアスの心の古傷をあっさりと抉った。この小娘っ!! 心の中でそう毒づいたが、溜息を吐く息子の

手前何も言えなかった。

 女の方はそなたに任せるゆえ・・・好きにいたせ。

 その一言と、意味深な視線。女神が欲しかったのはセナスティアの方。言外にそう言われたのは解った。となれば、この

城で生きてゆく為にセアラには仕事をさせねばならない。その仕事が・・・。

「わしの『世話』か・・・。」

 用意周到な事で。それが気に入らない。

 くすくすと笑う。少女のように。絶大なる神の力をもって君臨する小娘。「ガキっ。」何度となくそう呼んだ事もある。それが

赦されるのはトレイアスだからこそ。始めの頃こそディオネイルも父の言葉遣いの悪さに食って掛かったものだが、今は諦

めたのか溜息を吐いて呆れるのみだ。尤も、女神自身が赦しているのだからディオネイルがとやかく言う筋合いでもない

だろう。

 それにしても。

 

『随分と時間が掛ったではないか。』

 そう言って凄い流し目をくれた女神の微笑み。

 あまり感情が外に出ない分、幽かな微笑みでも嫣然と笑ったように見えてしまう。

『そなたらしくもない。』

 悪かったなっ。そう悪態を吐きながら、ふと、その事に気づいた。

 

 自分の過去を知っている・・・それは、あの光景のすべてを、この小娘は見ているという事ではないのか、と。

 

「精神の創りそのものが、人間とは異なるのだろうか・・・。」

 

 人の心に巣食う地獄を見続ける。

 それは、苦痛以外の何ものでもないだろうに。

 屍を山と築き、血を大河の如く流しても、この小娘は表情ひとつ変えはしない。

 六年前。十歳で地上に降臨し、それから一年後、地獄の蓋が開いた。神々の報復。その原因を知っているのは極限ら

れた人間だけだ。

 

 何も感じないのだろうか。

 ならば、なぜ。女神でありながらこの地に残っているのだ?

 天上に帰れば、この地上の悲惨な光景など見なくても済むではないか。

 

 

「やはり・・・あのバカ息子の為か・・・。」

 何と奇特な事よ。

 

 大きな悩みを幾つも抱えながら、息子の事では結構楽しんでいるトレイアスであった。

 

 

 04/22脱稿・04/26UP

続く。