【伯爵夫人の恋人 第三話】
美しき水の女神が住まうデイノスの城は、髪の毛の一筋さえ挿み込めない精巧かつ緻密な石積みで造られた複雑な建
築物だ。広さはゆうに町一つがすっぽりと入ってしまうほどあり、どうやら巨大な楕円形をしているらしい。らしいというの
は、未だ城の半分近くが土中にあり、全貌が解っていないからだ。
けれど、その状態でなお現在の人口を完全に抱え込めている。すべてが掘り起こされたら、恐らくその大きさはエザン
ドーエン王国の王都に匹敵するだろう事は容易く想像出来るというものだ。
巨大な城の四方には、青銅の巨大な二枚扉が付いた石門とそれに繋がる巨木壁があり、その外には荒れ果てた大地
が延々と続く。元々「デイノス」の意味が荒野、或いは命の育たぬ地、という意味なのだから、その光景は数百年の昔から
変わらず此処にあったものだ。実際、この城に女神が住まうようになるまでは、馬の食む草ですら隣接する他領地より買
い入れていた。当然、自給自足など出来る地ではない。巨木壁の内側だけとはいえ、緑溢れる現在が、この地にとって
は異常なのだ。
水の楽園、デイノス。
その呼び名は皮肉以外の何ものでもない。
だが、かつての名残も未だ、ある。
最近、何処から流れたのか水の女神が住まうという噂に縋るよう多くの人間たちが集まって来ている。尤も、重い青銅の
扉が開かれる事はなく、城を囲む守護壁の外と内の差はまさに天国と地獄。それでも、最早この地以外に頼る術を持た
ない人間たちは大地に屍を晒し続けるしかない。
時折、巨木壁に造られた小さな門が開き、立派な鬣を持つ馬に跨った男たちが屍の合間を走り過ぎてゆく。物乞いを
する気力も失くし、ただその光景を眺め見る人間たちに男たちの姿はどう映っているのか。かつては国の英雄と呼ばれた
馬上の彼らに、けれど餓えに苦しむ民を救う力はない。
一年の半分を雪と氷に閉ざされるエザンドーエン王国。
その国からすべての水が奪われた。
季節は廻れど、雨は降らない。
凍える大地に、霜すら降りぬ。
地下水脈は腐敗し、井戸は病気を撒き散らす。
見せつけられる。
神と人間の圧倒的な力の差。
そして知るのだ。
困った時にのみ祈ったところで、助けてくれる神などいないという事を。
地上にある美しき女神は、決して人間に救いの手を差し伸べる事はない。
罪を償うべきは、罪を犯した者でなければならない。
罪を犯したのは一人の王。
そして償うのは、その王を王として玉座に戴いていた民。
天上の神々は王の犯した罪を許さず、民は、王の犯した罪を知らない。
この世界は、理不尽にも、たった一人の王の犯した罪のとばっちりで滅びてゆこうとしているのだ。
デイノス城の地下。女神の住まう内離宮と呼ばれる広い空間内は、壁に嵌め込まれた発光石の光が乱反射し、室内は
まるで木漏れ陽が揺れているような色彩に彩られている。部屋数は多いが、利用されているのは謁見の間を始めとする
数部屋のみだ。無論、入室を許されている人間も極僅かであり、その中にトレイアスもいる。
今より少し前、憤怒の形相でトレイアスが内離宮に立ち入った。その訪問を予期していたのか、女神は何時になく上機
嫌であり、傍にいた男を酷く心配させていた。
常に女神の傍らに控える男の名を、ディオネイル・ロッド・リレイムと言い、かつてエザンドーエン王国の軍事部門最高
位にあった元帥である。琥珀色の髪と、異色眼──オッド・アイ──を持つ美貌の貴公子であり、トレイアスの一人息子
でもあった。尤も、ディオネイルは一度勘当されているので父より「ガローン」の名を名乗る事は許されていない。貴族社
会のエザンドーエン王国にあって商家出という異色の経歴を持ち、勝利の為ならば手段を選ばぬ冷酷さを持つ半面、気
さくな人柄で国民からは圧倒的な人気を誇っていた大元帥も、今は女神の立派な愛人である。表向きは。
「セナスティア・ジーク・クウォン・・・まさか、あの時の少年とは・・・。」
憤怒の形相で駆け込んできたトレイアスが、見事女神に返り討ちにされて立ち去った後である。長椅子にゆったりと横
たわり果実水を楽しむ女神の視界の片隅で、ディオネイルは謁見の間から奥に続く細い廊下を眺めながら大きな溜息を
吐いた。実際、父親が何にあれほど怒っていたのかは知らない。ただ、その口から出た名に、ディオネイルは目を見張
り、成程、と無意識に頷いていた。
六年前。女神がエザンドーエン王国に降臨した際、三カ月にも渡って多くの祝典が行われた。その時、女神と直接顔
を合わせられる機会が貴族たちには与えられ、セアラとセナスティア親子も謁見を許された事があったのだ。セアラの夫
は女神が降臨する一年前に他界しており、その爵位は幼い息子が継いでいた。
あの時、とディオネイルは回想する。確か、多くの貴族が女神に贈り物を直接渡そうと手に手に持っていたのだが、女
神が唯一受け取った贈り物は幼い子供の手にあった小さくて質素なブーケだった。そのブーケを持っていたのがセナス
ティアである。当初、豪華な包みを抱えた大人たちに交じって質素なブーケしか持たない子供は泣きそうな顔をして、恥
ずかしいから嫌だと広間の隅で駄々を捏ねていた。結局、母親は息子に持たせるのを諦めたのか、謁見の順番が来て
女神の聖玉座(この国では、王の座る椅子は玉座。神の座る椅子は聖玉座と呼ばれる)前に立った時には、ブーケは母
親の手にあった。
その時だ。傍らに控えていたディオネイルを女神が呼んだのは。そっと耳打ちをされたディオネイルは上段より降り立
ち、少年の前に立った。何も言わず隣にいた母親に手を差し出すと、母親は嬉しそうに自分の手にあったブーケを息子
に持たせ、それをディオネイルに手渡すよう促したのだ。すでに大元帥の地位にいたディオネイルはセナスティアにとっ
ても英雄だ。真っ赤になってずいっと両手でブーケを差し出すと、大元帥は笑ってそれを受け取り、女神の手に届けた。
後にも先にも、女神が謁見中に受け取った贈り物はこの質素なブーケだけである。隣の玉座にいた王が不思議そうに尋
ねると、女神の代わりにディオネイルが答えた。このブーケは薬花である、と。
『薬花?』
『はい。薬花を贈る意味を、神の姫君はご存じだったのです。』
貴女の健やかなる日々を心より祈る──。
女神との謁見で会話は許されない。だから、小さな花に思いを託したのでしょう。ディオネイルの言葉に王は感心し、女
神は幽かに微笑んだ。
「それで、御助けになったのですか?」
「・・・さぁ・・・。」
「姫?」
「ふふ。そろそろトレイアスにも、神の祝福を与えてやらねば・・・さすがに、拗ねるであろう?」
「は?」
「セアラを、くれてやろうと思うてな。」
「・・・夫人を・・・父に、ですか?」
「アレの歳を考えたら、女の為に態々東の砦にある娼館まで通わせるのもな・・・時間の無駄であろう。なにより、娼婦の傍
で死なれても癪に触るではないか。この城に娼館を造らせる訳にもゆかぬし。」
この少女は・・・時折とんでもない事をさらりと口にする・・・。
「アレの好みだと思うが。」
「そ、そうなんですか・・・? しかし、夫人がどう思われるか。」
「ディル。女の意思など関係ない。トレイアスが気に入らねば、女には東の娼館で働いてもらう。性奴としてトレイアスに仕
えるか、娼館で身を売るか。それ以外の選択肢などあの女にはないのだ。」
「姫・・・。」
「ディル。我はそれほど甘くない。」
この壊れた世界で、神として君臨する。
その事の意味と、犠牲と。
「我が必要だったのは、息子の方であった。」
「・・・セナスティア・・・ですか?」
「そうだ。だが、息子だけ助けても、あの子は精神を壊してしまう。それでは価値がない。」
「何を・・・させるつもりなのです?」
「さぁ・・・それは、あの子次第であろうな。どちらにしても、選択肢は多くない。所詮、人間の──。」
「・・・。」
「ディル?」
長椅子に横たわる円やかな肢体。
抱き締めるこの腕はあまりにも無力で。
「私の前で・・・女神でいる必要はありません・・・。」
「・・・。」
「貴女の言葉は、貴女を傷つける・・・。」
かつて貴女が、懸命に人であろうとし、人として生きようとしていた事を私は知っているのです。
「愚か者・・・。」
華奢な躰。
透ける白い肌はひやりと冷たく。
玲瓏な紅玉の瞳。
滝の如く流れ落ちる朱銀の髪。
「そなたは・・・あたたかいな。」
「私には、貴女をあたためる事しか出来ませんから・・・。」
「それで・・・。」
───充分だ。
これ以上、貴女の心が壊れてしまわないよう祈らずにはいられない。
貴女が、心やさしい女神である事を私は知っているから。
貴女は、天上に帰る事だとて出来るのに。
それでも、この世界に残ってくれた。
希望の種を、人の手に託す為に。
「あの・・・。」
「・・・? なんだ?」
「いいんですよね?」
「・・・なにがだ?」
「いや、本気であたためてもいいのかな、と・・・。」
「・・・。」
「ほら、久し振りだし。このまま閨に運んでもいいのかな、と。いや、今更イヤと言われても困るんですが・・・。」
父のアッチの心配より、私のコッチの心配をしてくれた方が嬉しいんですけど・・・ごにょごにょ・・・。
「そなた・・・世の女共の夢と希望を打ち砕いておるぞ・・・。」
続く。