【伯爵夫人の恋人 第十話】

 

 

 

 急がねばならない。

 奇跡は、待っていても起こりはしない。

 待つだけでは、何も変わりはしないのだ。

 だから、用意周到に準備を重ねる。

 必要な限り手駒を用意し。

 必要以上に、この手の平で転がし。

 篩いに掛けて不要なものは切り捨てる。

 誰が泣こうと。

 喚こうと。

 重要なのは、未来に希望を残す事。

 無から有を創り出す事。

 

 その為に。

 闇の箱に閉じ込められた奇跡を解き放つ。

 

 急がねばならない。

 決して不備は赦されない。

 傲慢なまでの我儘さで。

 貪欲なまでの利己欲で。

 天上の神々が定めた運命を覆す。

 

 奇跡を起こすのだ。

 護るべきものがあるから。

 奇跡を掴むのだ。

 愛おしいものがあるから。

 

 その為に、我は此処にいるのだ。

 

 誰が泣こうと、喚こうと。

 それが、我自身であろうとも。

 構いはしない。

 重要なのは。

 未来だけ。

 

 

 

「我が意に沿わぬ者は好かぬ。」

 

 女神の、その第一声に、トレイアスは顔色を失った。

 急な呼び出しにブツクサ言いながら入った謁見の間。だが、いつになく部屋の空気が張り詰めている事に気づいたトレ

イアスが首を傾げた一瞬、その第一声と共に女神は現れた。

 言霊・・・。

 女神が放った第一声の持つその威力に、謁見の間の空気が凍りつく。まさに瞬殺だ。神が神たる所以のひとつがその

声音と言われているが、この時、それをトレイアスは初めて実感した。力を持った言葉は、放たれたその一瞬に場のすべ

てを捉え、手中に収めてしまう。抗う隙すら与えずに。

 冷やかな紅玉の視線が沈黙を命じる。指一本動かせぬ状態とは、正に今、この瞬間を指す言葉か。

 巨大な岩壁が迫って来る。広い謁見の間を満たす冷気に心臓が圧迫される。まるで城全体が生き物のように呼吸し、

トレイアスの巨躯を噛み砕こうとしているようだ。

 息子とよく似た琥珀の瞳が凝視する先。美しき女神は冷然と石の聖玉座に腰を下ろし、細く長い脚を組む。少女らしか

らぬ威厳はいつもの事だが、今日はその威厳に、凍えるような、と言葉を付け足さねばならないだろう。

 目の前の存在に命ごと呑みこまれる。感情のすべてが簡単に支配されてしまう。ゴクリと、トレイアスの喉が鳴る。だが、

それだけだ。機嫌が悪いとか、そんな簡単な言葉では言い表せない何かに室内が支配されている。

 

 これが、神の言霊     神意     なのか・・・。

 

 目の前の小娘の放つ威光に、いつもの感覚が麻痺してしまう。返す言葉が、出て来ない。

 

「トレイアス。同じ事は二度言わぬ。」

「・・・。」

「このデイノスに、役に立たぬ者はいらぬ。」

「・・・。」

「そなたはもっと、賢いと思っていたがな・・・。我の買い被りであったか。」

 探るような紅玉の視線が、容赦なくトレイアスの心臓を鷲掴みにする。みっともなく喉の奥で焼けついた言葉を吐き出そ

うと、トレイアスは無骨な手で己の喉を撫でつけた。

「一体・・・何があった・・・。」

 何がこの小娘の意思を一変させた?

 ここまで強固に出てくる理由は何だ?

「あの女の一件をそなたに預けてひと月になる。結果は?

「好きにして良いと言ったではないか。」

「言葉の裏は読み取ったはずだ。」

「三カ月も寝たきりで、最近、やっと動けるようになったばかりだぞ。」

「それがどうした。デイノスの女たちは子を産んだ次の日には働いておる。」

 おかしい・・・。言っている事は解る。理解出来る。だが・・・。小娘らしく、ない。

 土と、水と、種を与えて、その先は与えた者に任せるのが小娘のやり方だ。蒔いた種は自分で刈り取らせる。最後まで

口は挟まない。いつも、なら。

「何があった。」

 そうだ。なぜ、バカ息子がいない。謁見には必ず付き従っているはずなのに。

「トレイアス。」

「小娘らしくもない。何を焦っている。いつもの余裕はどうした。」

 否。余裕がないのは自分だ。嫌な予感が胸の奥で燻り、今にも火を噴きそうだ。

 だが、女神は容赦なく追い打ちを掛けて来る。

 

「ああ、焦っているとも。」

「・・・?

 次の瞬間。トレイアスの思考は完全に停止した。

 

「ライラの命が懸かれば、我とて焦る。」

 

「なっ!?

「ライラの命が懸かっているのだ、トレイアス。だから、我は急いでいる。」

 

 ライラの存在は、トレイアスにとって致命的な弱点だ。彼が気まぐれに拾って育てた子供たちは数多いが、ライラとアイラ

の姉妹は違う。奴隷市場で売られていたのを奪うようにして手に入れたのだ。それはトレイアスという男にとって非常に珍

しい行動であった。否。衝動と言った方が良いかもしれない。

 ライラは、似過ぎていたのだ。あまりにも。トレイアスの死んだ妻、アーリアに。

 

「どっ、どど、どういう事だっ!!

「そのままの意味だ。」

「だからっ!! どういう事だっ。なぜそうなるっ!?

 ライラの名が出ただけでこの有様か・・・。

 トレイアスは顔面蒼白である。

「我も・・・多少なりと人間に対する認識が甘かった。血の絆とやらが、ここまで精神に組み込まれているなどと思っては

おらなんだからな。」

「・・・?

「精神の傷だ、トレイアス。親子の情というのが我には理解出来なんだ。」

「・・・まて・・・まてまてまて、待てっ。何の話だっ!?

 なぜライラとセアラ親子の話が繋がる? 血の絆? 親子の情? 何の話だ!!

 混乱して言葉にならないトレイアスの叫び。それを、ああ、そなたには話してなかったか。と、女神はあっさりと読み取り

話を続ける。

「あの子供は、ライラの身代わりとして拾ったのだ。我が愛し児の世話をさせる為に。」

「な・・・に・・・?

「あのやんちゃは困った事に、ライラがいなくては夜も陽も明けぬ。だが、治療中は会わせる事が叶わぬのだ。それ故、身

代わりが必要であった。アイラは東の砦の一件で四六時中やんちゃの傍にはおられぬしな。」

「つまり・・・なんだ。セナスティアが、ライラの代わりにヒイの面倒をみる、と?

「そうだ。ヒイラギは意外と神経質なのでな。」

「何の為に・・・。」

「耄碌したのか、トレイアス?

「この会話だけで意味を理解しろと言う方が無理だろうがっ!!

「やれやれ・・・遣えぬヤツよの。」

「わしが悪いのか、わしがっ。」

 

 簡単な事だ、と女神は言った。

 感情の無い声で。

 

「母親の負の感情が、息子の目覚めを妨げておる。」

「セアラの?

「そうだ。母親の息子に対する罪悪感。己への嫌悪。穢れに対する絶望。それらが、どういう理由でかは我にも解らぬが、

蘇生球の中にある息子に伝わり影響を及ぼしておるのだ。」

「親子の情・・・か。」

「そのようだ。我には理解出来ぬ。」

 

 元より、死に縛られぬ神に、人の情など理解出来ない。

 喜怒哀楽。感情という生き物は、限りある時間の中だからこそ生まれるものなのだ。

 獣の生殖本能ですら、死があるから存在する。己の血を、種の未来を、残す。残さねばならない。それは生命が持つ

純粋な渇望でもある。

 限りある命だからこそ。

 死、あるからこそ。

 命は、ありとあらゆる手段を持って次の世代を生み出すのだ。

 

 だが、神にはその必要が無い。

 血も、種も、未来も。

 限りない時間を持つ神にとっては意味の無いものなのだ。

 だから、この幼い女神には感情が希薄だ。否。感情が無い、と言った方が良い。この女神が時折垣間見せる感情は、

所詮は真似事でしかない。優しさも、愛情も、すべてはディオネイルから映し取っているに過ぎないのだ。

 少なくとも、トレイアスにはそう見える。そう感じてしまう。

 

 だが、この幼い女神にそれを強いてしまったのは人間なのだ。

 この女神が、かつて人間として生きようとしていた事を、トレイアスは知っている。

 悲しいほどに異端でありながら、それでも一人の男を愛し、人になろうとしていた時があったのだ。

 そのすべてを失わせたのは、たった一人の王だった。

 世界崩壊の元凶となったエザンドーエンの王。

 ディオネイルの、かつての主・・・。

 

「ヒイラギの一件について、我はそなたに手の内を明かすつもりはない。その目的も、その役割も、だ。」

 だが、この男は薄々気づいているだろう。

 ヒイラギ・アグラ。女神より有り余る愛情を一身に受ける、この年4歳になる幼子の存在理由。

 内離宮、つまり、女神の居住区に部屋を持つ事が赦されているのはディオネイルを含めて僅か数人だ。その中でも、

ヒイラギは特殊な生活環境に置かれている。

「そんな事はどうでもいい。わしは小娘のする事に一々干渉はせん。しかしな。ヒイはライラを母親のように慕っておるぞ。

身代わりなんぞ、アイラにしか勤まらんだろ。ましてセナのような少年に母親の代役なんぞ出来るか?

 トレイアスが言うのも尤もである。

 だが。

「我も、最初は、そう思っておった。」

「最初は?

「そうだ。」

 しかし、似ているのだ。あの子供は。セナスティアは。

「初めてセナスティアの精神と接した時、確かに感じた。アレは、限りなくライラとよく似た宿命を持っておる。」

「宿命?

「そうだ。アレは、ライラと同じ。自己犠牲の星の許に生まれておる。」

 その刹那、トレイアスの顔が見事に歪められた。

 

 自己犠牲の星。

 自らを他者の犠牲にする事でしか生きられぬ運命の持ち主。

 自己犠牲の星は、貢の星に従属する運命を持っている。

 巨星である貢の星を持つ者は、自らも輝く事が出来る。それが宿命でもある。

 だが、自己犠牲の星は自ら輝く事は無い。陰星なのだ。陰に生まれ、陰に生き、人知れず死ぬ。尽くす事でしか生きら

れない哀れな宿命の星。

 だが、自己犠牲の星は、貢の星の許でしかその宿命に目覚める事は無い。

 つまり、トレイアスと出逢わなければ、ライラは陰星として目覚める事など無かったのだ。

 

 奴隷市場で、素っ裸でセリに掛けられていた幼い姉妹。

 その顔に最愛の妻、アーリアを見つけた時の歓喜。

 幸せにしたくて手に入れた。

 天上の美貌を持った琥珀の娘たち。

 それなのに・・・。

 

「親子だな・・・ディオネイルと同じ表情をする。」

「・・・。」

「その痛みは、我には理解不能だ。」

「・・・だろう・・・な。」

 この痛みを、神に理解しろと言う方が無理だろう。

 無限の時を生きる存在が、いちいち人と同じ痛みを感じていては精神が壊れてしまう。

 ある意味、この女神は最も神らしい神なのだ。

 他の神に、会った事はないけれど・・・。

「それで・・・?

「うむ。ライラの治療を始める。」

「治療?

「ライラの躰は限界を超えておる。我のやんちゃの為、というよりは、今まで、その治療の方法に難があって実行に移せな

かったのだが。」

「解決策が見つかったという事か。」

「そうだ。だが、その為にはやんちゃの世話役がどうしても必要だ。」

「・・・。」

 

「トレイアス。」

 

 女神の声と共に、謁見の間の奥から顔を出したのは竜だ。

 しかも、この竜は・・・。

 

 女神の足元に、ぱっくりと開かれた口から、意識の無い全裸の子供が吐き出される。

 水に濡れ、凍えた身体はピクリとも動かない。

 

「何をするっ!?

「一週間だ。」

「・・・な・・・に?

「このままの状態で生きられるのは一週間。その間に意識が戻らなければ。」

 

 

 母親と共に処分しろ。

 

 

 

08/22脱稿・08/23UP 

続く。