【山振の 立ち儀ひたる山清水 酌みに行かめど 道の知らなく】

山吹の花咲く山の清水を酌みに行こう。黄泉までも行って蘇らせよう。
そう思うのに、その道が解らない…(巻2-一五八 高市皇子)



    凍えの城    


ボンネットで跳ね返った黒い塊が、母の身体だと気づくのに一瞬の間があった。
フロントガラスを流れる血が、黒いと感じたのは逆光だったからだろうか。
乱れた黒髪の美しさを、なぜか鮮明に覚えている。

幼い日の記憶。
あの日を境に、私に父という存在はいなくなった。

私の母は、米国人と日本人のハーフだ。

祖父は小さな教会の神父で、祖母は慎ましやかに育てられた純和風の女性。
二人は、祖父が宣教師として日本に滞在していた時出逢い、大恋愛の末結ばれたのだという。
その後、二人は祖母の両親の死を機に米国へ渡った。

物静かで大らかな祖父と、慎ましやかで控えめな祖母に大切に育てられた母は、とても大人しく、
とても純粋で、父は、そんな母と偶然出逢い、大恋愛の末周囲の大反対を押し切って結ばれたのだという。

父は、米国でも有数の大富豪の一人息子だった。

私の記憶にある母は、いつも笑っていたように思う。
父が愛人を作るようになった理由は定かではないが、母は、いつも暖かな家庭の雰囲気を壊す事なく父の
帰りを待ち、一人息子である私を慈しんだ。

あの日。
あの事件が起こるまでは    

私は両親の不仲を知らず、ただ、父の、母の、愛情を一身に受け8歳まで育った。
正直言うと、今は幼い頃の記憶が曖昧で、もしかしたら都合のいい解釈をしているのかもしれない。
それでも、幸せだったのだと思う。
少なくとも、私の前で父と母が争った事など一度もない。

ただ、あの日。
父はいつになく上機嫌で私を買い物に連れ出した。
自らの運転で。

深紅のフェラーリが爆音を響かせるのを酷く喜んだのは、その日まで父だった男の運転だったからだろう。

あの日。
何があったのか知ったのは、母の葬儀の席でだった。


当時、父の愛人の一人が妊娠騒ぎを起こし、父は、まだ珍しかったDNAでの親子鑑定を行った。
結果は、親子である確率は0%。
父は多くの愛人を囲っていたが、母に対して不実であった訳ではないらしい。
どちらかと言えば、父は母を愛していたのだろう。
否。
愛し過ぎていたのかもしれない。
まるで子供が好きな相手を苛めるように、父は母の心の在り処を知るために酷い仕打ちを繰り返していた
のだと。
母の愛を、いつも確かめずにはいられなかったのだと。
今ならば理解出来る…かもしれない。

けれど、当時、父に悪魔が囁いた。
『お前の妻の産んだ子は、本当に我が子か    ?』と。

父は、母に内緒で私との親子鑑定を行った。
あの日、父が上機嫌だったのは、鑑定結果が自分の望むものだったからだ。
朝一番に病院から電話を受けた父は、珍しくすべての仕事をキャンセルし、私を連れ出した。
自ら運転する車に私を乗せ、城を出発する父を母は笑顔で見送ってくれた。

それから半日後。
自ら命を絶つ事になるなどとは思わずに…。

幼い私が最期に見た母は、本当に美しかった。


凍りついた私の視線の先。
車から飛び出した父が半狂乱で何かを叫んでいた。
母の後を追うようにヒラヒラと舞い落ちる紙切れが、病院から届いた鑑定結果だと気づいたのは、血に塗れた
母の手に握られた封筒の所為だろう。

病院名の入った封筒は、確かに父宛ではあった。
いつもなら、決して父宛の封書を開く事などない母が開封してしまったのは、あまりにも単純な理由からだった。
病院からの封書を見た母は、父が体調を崩したのではないかと心配したのだ。
自分に黙って検査を受けたのではないかと。

それが、まさか。
自分の息子との親子鑑定結果だったなんて…。

母の心は壊れた。
何人の愛人を囲おうと、決して父を責めなかった母なのに。
大恋愛の末に生まれた我が子を疑われたショックに、母は、耐えきれなかったのだ。
そして、私の心も…。

慎ましやかで、誠実で、心優しい母だった。
誰よりも、父を、私を、愛してくれた。
それなのに…。。

母の葬儀の席で、私は初めて真実を知った。
父が、母と私に何をしたのか。
それは8歳だった私にも、理解出来るほど単純な事だ。

父は、母を疑った。
父は、私を調べた。

それが、すべての発端であり、すべての終わりだった。

私は、父を、城を、すべてを捨てた。
祖父母の許に身を寄せ、父との接触は一切断ち、途中祖父母を亡くしたものの、大学を自力で卒業すると迷う
事無く日本に渡った。
父が再婚した頃だ。
母の面影を求めた結婚だったらしいが、結局裏切られ離婚。
同じ頃、父は自らが癌である事を知ったらしい。
余命の宣告を受けた父は、日本にいた私を無理やり連れ戻したのだ。

自分を憎み続ける息子に、すべてを与える為に。

「この城は寒いな、ロバート。」
「若様。」
「母がいた頃は、あんなに暖かかったのに。」
「奥さまは、まるで陽だまりのような方でしたから。」
「ああ。…なあ、ロバート。」
「若様?」
「遺産の相続を、放棄しようと思ってるんだ。」
「…若様、それはっ。」
「あの男の物など、なにも欲しくない。」
「…。」
「母の形見だけを荷造りしてくれ。他は、なにもいらない。」
「…若様。その前に、これを。」
「なに?」
「父君が貴方に遺したものです。」
「いらない。」
「奥さまのものでもあります。」
「…。」

    山振の 立ち儀ひたる山清水 酌みに行かめど 道の知らなく    

「これは?」
「万葉集です。奥さまの部屋に、本がございます。意味は、ご自分でお調べになるといいでしょう。」

決して上手くはない日本語で書かれた万葉の歌。
和紙に書かれた父の文字。
万葉集は千年以上も前に日本で生まれた詩集だ。

「やまぶきの たちよそいたるやましみず くみにいかめど みちのしらなく…?」

壬申の乱で夫を失った十市皇女。
彼女を愛した敵将、高市皇子。
皇子の愛を拒んだまま若くして皇女が亡くなった時詠まれた挽歌。


山吹に彩られた山の清水を酌みに行こう
黄泉までも追って行って蘇らせよう
そう思うのに
その道が
解らない


    貴女への道が
            解らない…    


失ったもののあまりの大きさに押し潰されそうな日々の中。
ただ、愛する人を取り戻したいと儚く願う。
取り戻す術など、もうないというのに。

今は亡き父の、切実な想い。


「旦那さまは、酷く不器用な、お方だったのですよ…。」
「…。」
「泣かないで…ウィン様…。泣かないで…。」


山振の 立ち儀ひたる山清水 酌みに行かめど 道の知らなく

失ったものは、もう二度と、戻らない…